「ふぅ……」
今日も誘祇は来ない、そう言って苦笑するひぃなを横目に、私は溜め息を吐いた。
棕櫚は何か、思い詰めた様な表情をしている。二人とも雰囲気が暗い。
そんな様子を見ている私も、辛い。
「ひぃな、会えなくて寂しい?」
誰に、などとは聞かなくても分かると思って言わなかったけれど、もちろん誘祇の事だ。私は内心……彼の努力のことごとくが裏目に出てしまっても、健気に努力を続けるという彼の姿勢を尊敬している。
そりゃあ、努力が裏目に出たいとは思ってないけれど。でも……かなり前向きな行動力よね。
「寂しくはないかな。
だって、誘祇はこの世界にいるんだもの。
それに、暫く会いたくないって言ったのは私の方だし」
いつもの調子に少し戻ったように見えるひぃなは、直後に机へ肘をついた。そして、少し情けない表情を見せる。
「それよりも気まずくって。
だって、その……偽物だろうと、あそこまで似せるには……」
彼女の言いたい事は分かる。偽物と、最低一度は肌を合わせているはずだと言いたいんだ。神祇と同じ気を持つ事は簡単ではない。同じ気を共有するには何かしら、気を混ぜ合わせる必要がある。姫巫女と神祇が
夫婦(の形態をとっているのには事情がある。姫巫女が神祇の力を自らの力として利用する事ができるのは、この世界に生きている人間であれば誰もが知っている事実。でも、なぜそうしなければならないか? そこまで知っている人はそうそういない。
神祇の力を自らの力と交換し、
路(を作る事によって初めて可能となる。この、力を交換するのに手っ取り早い方法が、交わるというだけで。時間がかかっても良いならば、側にいるだけでも可能なの。すごく時間がかかるそうだけどね。だから、普通は交わる事を選ぶ。
誘祇が直々に対処し始めてから数日と経っていない。そんな状況を見れば、誰しも同じ結論に達すると思う。
でもそんな経験も、そんな覚悟もない私にはあまり接する事のない話題だった。
「そうね。
でも、あなたの為と信じての行動だわ」
「分かってるけど、そういう誘祇は見たくない、気が……する、の。
気持ちの整理がつくまでやっぱり会えないよ」
自らの犠牲を承知で、という部分なのか、男という性質の部分なのか、どちらか私には分からなかったけれど。ひぃなも困惑しているようで、次の言葉はなかった。
「ひーぃな」
「ん?」
棕櫚がひぃなの肩にのしかかる。一瞬、彼女の表情が明るくなる。私とひぃなにとって、棕櫚は頼れるお兄さんのような存在になる時がある。今が正にそんな時だった。
「なぁ、今度俺達が誘祇と会ったら……あいつの事、一発殴っても良いか?」
先ほどまで考え込んでいたのはこの事だったのね。棕櫚らしいわ、と思いながら二人の会話に耳を傾ける。
「棕櫚、理由は何?」
ひぃなはちらりと棕櫚を見遣り、興味深そうに聞いた。彼はひぃなの肩から離れる。
「愛する相手が居るのに、他の相手と夜を過ごす事が……同じ男として、許せねぇ。
しかも、ひぃなだぜっ!?
俺の可愛いひぃなだ。そんなのは、あいつにとってだって同じだろうよ。
何せ、お前に関係する事なら俺が奥さんと
懇(ろしていたって、乱入するくらいなんだからな」
「はは……」
誘祇の非常識ぶりにひぃなが乾いた笑いを洩らす。まぁ、普通なら夜の営みの時くらいは遠慮するよねぇ……。
「それくらい、ひぃなの事に見境なくなっちまうのに……あれは許せん。
だから、一発殴らせろ」
棕櫚らしい言葉だった。棕櫚だって最初は、ひぃな以外の女性と結婚するなんて考えた事もない人だった。
ただ、ちょっとした決意によってその考えが、がらりと変わる事になっただけ。未だに彼の中でひぃなを人間の女性では一番愛している。
愛は、どんな形にでも化ける。それを私は彼らに教えられ続けている。
「そこまで棕櫚が言うなら、良いよ。
ありがとう、棕櫚」
ひぃなは棕櫚を兄弟の様にしか見ない。それを知っていても棕櫚の気持ちは生涯変わらない。ひぃなと愛しいと思う気持ちは変えられない、そう呟いた彼を覚えている。
あの時はあの時で、棕櫚は辛そうにしていたけど。
「ひぃな、気持ちの整理がついたら俺の事を呼ぶんだぞ」
「うん」
二人は見えない絆で繋がっている。とても素晴らしい事だ。私の表情も、そんな二人を見ていると自然と解れてくる。
「ひぃな、その時は私も呼んでね」
そう言えば、彼女は嬉しそうに返事をする。
「もちろんよ。
私の大好きな親友だもの」
がたがたと周りが慌ただしくなる。先生が来たみたい。
「じゃあね、ひぃな。
また後で」
「うん、またね」
ひぃなは近くの席に戻る。棕櫚はちゃっかり授業の腰囲まで終わっていた。最初から出したままにしておいたのだろう。彼はいつも、そうだから。
淡々と進んでいく授業、生徒の大半はまじめに受けている。私は棕櫚を見た。
……寝てる。でも、彼の眠り方はすぐに見破れないほど上手だった。よく見れば、目が閉じていて彼の書いている文字が、文字とは言えない何かであると分かるだろう。
筆を器用に動かしながら寝るなんて、大抵真似できたものじゃない。くすり、と笑いを少し漏らしてから視線を移した。
ひぃなに目を移すと、やや退屈そうにではあるけれどまじめに授業を聞いていた。ひぃなは勉強家だから、今やっている科目あたりであれば既に習得済みだったりする事が多い。かく言う私自身、家で既に学んでしまっている事柄が多いせいか、同じような状況になっているのだけれど。
大きな一族の場合、度々家の教育の方が進んでいる事が多い。だから周りを見ていても、大きな家柄の生徒はあまり集中せずに先生の言葉を聞き流しているように感じる。
こればかりは学校もどうにもできないものよね、と軽い溜め息を吐いた。どうせ、今勉強している生徒の邪魔をする人間は誰もいない。だから構わないのかもしれない。
こちらとしてはいまいち時間が勿体ない様な気がする。組の構成をもう少し考えてした方が良かったんじゃないかなあ?
「では、次回についてですが。
先ほど言ったとおり、実技をします」
さっきまで友人観察をしたり、授業や組の構成について考えていた私の意識が先生の方へ向いた。これだけは聞き逃すまい。聞き逃すのはただの間抜けだ。
「次回は今回勉強した、神祇の召喚を実際に行ってもらいます。
知り合いの神祇や仲の良い神祇に、話をつけておいてくださいね。
また、どうしても都合の付かない場合があると思います。その場合は臨時で頼んでおきますので早めに言いに来てください」
棕櫚は当然
綾祇(を喚ぶのだろうけれど、ひぃなはどうするのだろう?そう思って彼女を見ると、俯いていた。ここからじゃ、表情が分からない。
私は、ばば様に頼めば何とかなるかな。きっと彼を貸してくれるはず。勿論彼、というのは家に代々伝わっている神祇の事だ。
「以上、授業を終わります」
先生はそう言うと、教室を去っていった。再び思考に沈んでいた事にはっとする。結局聞き逃すまいと思っていても半分しか聞いていなかった。
これは後でひぃなに聞くしかないかもしれないな、と軽く頭を振る。視線を感じて頭を動かすと、棕櫚が私を見ていた。話があるようだ。
「どうしたの?」
「いや、大した用ではないんだが。
ひぃなの奴はどうするんだろうかと」
「やっぱりその事ね」
そう言うと、棕櫚は少し不満そうにこっちを見た。さも自分が一番心配しているんだぞ、と言いたげだ。誰がどれくらいの規模で心配しているのか、とか誰が先に心配し始めたのか、とかは全く関係のない事だと思う。彼はそんなくだらない事までひぃなの一番でありたいと考えているのだ。
可愛らしい一面をやはり見せつけられて、笑い出したい衝動に駆られる。それを理性で押さえつけながら続きを促した。
「あいつの心の整理が間に合わないんだったら、導祇あたりに相談すればやってくれると思うんだ」
「うん」
「だけど、それは勝手に予め頼んでおくわけにはいかんだろ?」
その言葉に軽く頷いてみせた。
「こればかりは勝手に行動できないわ。
後でひぃなに直接聞かなきゃ」
「……そうだな」
この日、ひぃなは授業の話も誘祇の話もしようとはしなかった。次の日にはけろっとしていると思ったんだけど、その逆で。何故かひぃなの悩みが増しているみたいだった。
「ただいま」
「おかえり、ひぃな」
「あ、お母さん」
神を喚ぶ課題について考えながら家に帰ると、すぐに母が出てきた。母はすごい人だ。周りには言えない大きな秘密を抱えている。その一欠片は私だったりするんだけれど。
「ひぃな、彼の方とはまだ仲直りしていないの?」
「けんかではないのよ、お母さん」
少し余計なお世話だと思ったけれど、母の発言には何かしら意味があるのを思い出して返事をした。履いていた足袋まで脱ぎ、素足になった。まだ季節は冬。ひんやりとした感触が足に伝わる。
「あのお方は、あなたがどんな人間でも間違いなく愛してくださるわ。
わたしが保証してあげる。
今頃、絶対に寂しがっているわ。早く喚んであげなさいね」
そう言いながら私を茶の間へと勧める。反抗するいわれもないからそのまま移動した。母は暖かい。そういう空気を常に放っている。
「でも、私にまだ覚悟ができていないの。
全てを受け止められるだけの心がないのよ」
悔しいけれどそれが私の本音だった。母はからからと鈴のように笑う。
「そんな覚悟なんて、いらないわ。
……そうね、あなたの昔話をしてあげましょう」
そこで私は更に誘祇に対する違和感を覚える事になるのだった。
*****
私と母は向き合って座っている。いつの間に持ってきたのか、近くにはお茶菓子やお茶まであった。
「あなたが幼い頃の話よ」
そう言って始まった私の昔話。
我が家の結界をものともせずに、門が開いた。娘のにおいだけではない。他の者がいる。神だろう。玄関の前まで来た事が分かる。娘の反応がない。眠っているのだろうか?死の香りはしていないから、まだ大丈夫だ。
わたしの力よりも強く、あまり良くない意志を持つ神であったらどうしたものか。そう少し嫌な考えを浮かばせたが、すぐにその思考は止めた。柔らかく声を掛けられたのだ。
「この娘子の家と思い、来たのですが……あっています?」
「えぇ、その通りです」
そう言うと、どこかほっとしたような柔らかい雰囲気が漂ってきた。どうやらきちんとした神のようだ。しかしどこか知っている感じがする。気のせいではないだろう。とはいえまだ思い出せない。
「申し訳ありません。
私は勝手にこの屋敷へ入る事はできません。よろしければ……この玄関の戸を開けていただけませんか?」
この神は信用できる。そう判断したわたしはその戸を開いた。
「どうぞ、お入りください。優しき神よ」
「ありがとう」
姿を見た瞬間、この神が何者なのか理解した。この世界の最高神、
誘祇上(だったのだ。
「この娘、私はひぃなと呼んでいるのですが、名は何と言うのです?」
玄関に入った瞬間聞かれた言葉は、わたしを固まらせた。その名は……数ヶ月前に娘が自ら持ち帰ってきた巫女名だったからだ。それまでは娘を「愛し子」と呼んでいた。
娘は姫巫女にはなれない。そう思いつつ、妻のように姫巫女として幸せになって欲しいとの考えから娘に呼び名をつけていなかった。
それが数ヶ月前、嬉しそうな顔をして娘が自ら名乗ったのだ。「わたし、きょうからひぃなってなまえになった!」と幸せそうに言っていた。
その時、わたしは運命を感じた。あぁ……娘はもう人間として生きられない。神の娘、そして神の妻として生きるしかないのだ、と。
「ひぃなと呼んでください。誘祇上」
「はは……やはり正体が分かりましたか」
そう言って、美しい銀糸の様な透き通った髪を揺らしながら彼の神は笑った。
とにかく玄関先で長話は失礼だと気が付き、茶の間へと案内した。その間娘は神に抱きかかえられたままであった。
娘を奪い返したいと一瞬頭にちらついたが、別に奪われたわけではないと意識を押し込める。娘が神を気に入ってしまったのは仕方ない。そうは思うものの、やはりもの悲しいと同時に悔しい。
神を座らせてから一つお礼を言わなければならない事を思いだした。お礼とお詫びを口にせねば、無礼なのではないかと気が付いたからだ。娘が迷惑をかけたという点ではわたしは何とも手助けをする事はできない。そういった事にならないのを祈るしかないのだが、何とかなるだろう。
「しかし本当にご迷惑をおかけしまして……」
深くお辞儀をしたら神が固まった。お辞儀が足りなかったのかと、土下座した。逆効果だったようだ。彼の神は慌てた様子で、そんなことしないでと言っていた。
「ん……」
神につれられた時から寝入っていた娘は、その騒ぎに目を覚ました。視線はまだぼんやりとしている。
「あ……かみさま」
娘が父であるわたしではなく、神を真っ先に視線に捉えて声を掛けた瞬間……完全な敗北を悟ったのだった。あぁ、我が娘はこの年にして伴侶を決めてしまったのだ、と。
大げさかもしれないし、親ばかだというのかもしれない。しかし、わたしがその時に感じた予感は正しいものとなった事が後日判明するのだった。
「そろそろ私も屋敷に戻らなければ……」
夫と話をしながら寛いでいた神は、腰を低めにそう言った。わたしは、娘がとられるであろう神に対してどちらかというと好感的に思っていた。折角来ていただけたのだから、もう少しいてくれても構わないのにと言ってみる。
「いえ、一応執務が少し残っているので」
残念そうに言って神は立ち上がろうとした。仕事の最中に恐らく娘に呼び出されてしまったのだろう。迷惑だったかと考えると同時に、仕事よりも娘を優先させてくれる神の優しさを思った。
「娘が仕事を中断させてしまったようですね。
そういう事でしたら引き留める事はできません」
「誘祇上、この屋敷に許可なく入れるようにしておきます。
時間ができた時には気軽においでください」
夫とわたしでそう答えると、神は柔らかく微笑んだ。確かにわたしは初めてこの最高神と接したのだけれど、それでもこの神が最高神であれば良い世界が続きそうだと思えてしまうくらい、良い神に感じた。
我が娘ながら、良い神を選んだものだ。
「では、失礼――」
暇を告げようとした神が切なそうに顔を歪めた。
「あら……」
再び眠りについたひぃなは彼の着物を強く握りしめていたのだ。
「誘祇上、顕現を解いてお帰り下さい」
「いえ……もう良いです」
何故か観念したように言った神は、元いた場所に座り直してしまった。何をするつもりだろうか、と訝しむわたし達をよそに神は空間を操作して巻物を取り寄せた。
「ここでも作業できるものばかりですから、彼女が目を覚ますまで私はこちらにいますね」
「まぁ、迷惑をおかけしてすみません」
「私も、この愛し子と共にいる時間は大切に思っていますから……
長くいられる分には、迷惑だなんて」
さも、いてもらっているのは自分の方だと言わんばかりの言葉に、わたしも夫も目を点にしてしまった。
「なんて事があったのよ」
「え……記憶にない分、続きが気になるんだけど!?」
続きをせっつく私を無視する。それに、いつ私が誘祇と出会ったって……?
「とにかく、あの神はちょっとやそっとじゃひぃなを嫌いになるわけがないわ」
私は、お父さん経由で誘祇に会ったんじゃないの?私が初めて彼に会ったのは、祖母の御霊返しをした後で……
――ひぃな――
誘祇の、声?
「あ」
あれ?私は何を……――
誘祇の声らしきものが頭に響いた瞬間、今何を強く思っていたのか分からなくなってしまった。何だったんだろう?
「ひぃな、そろそろ夕ご飯にするわね」
「あ、うん」
話の途切れを区切りに、お母さんは夕飯を作りに台所へ行ってしまう。私は小さく息を吐いて、自分の部屋へ向かった。
結局思い出せなくて、もやもやしたまま学校へ向かう事になってしまった。
全然分からない。だけど、何か記憶の食い違いがあったような気がする。何かがおかしいのだ。それ以上の事は全く分からない。
誘祇に聞きたい。何が起きているのか、知りたい。知りないのなら、こんな風に意地を張っている場合じゃない。
悶々と考えていると、
棕櫚(と
水鶏(が心配そうな視線を投げてきた。そんな二人には「まだ大丈夫」という気持ちを込めて軽く笑みを返した。
そのつもりだったのに、二人ともこっちに近付いてくる。
「本当に大丈夫なのか?」
「……信用ないみたいね。私」
「いつも、大丈夫って言うんだもの。
大丈夫じゃない時だって、そう言ってるでしょ?」
確かにぎりぎりまで我慢や努力を続けるけど、大丈夫って言っている時点では本当に大丈夫だと自分では思ってるからなのに。
「今のところは、本当に大丈夫。
ちょっと思う所があるだけだから」
「……その、ちょっと思う所っていうのが信用ないんだぞ」
棕櫚が呆れた声を出す。
「まだ、私の中でもよくまとまっていないの。
だから話せない」
正直に言えば、今後自分の中でまとまったとしても、この話題を出すつもりはなかった。話をするとは言っていない。だからこれは嘘じゃない。
「なら、良い」
思ったよりもあっさりと退いた棕櫚を、あまり心理戦が得意でない私は放置した。
「ただ、これは話しておこうかな」
何を、と小さく水鶏が呟いた。私は少し気分が良かった。誘祇の反応が楽しみだったのだ。
「私、当日に誘祇を強制召喚するわ。
本人へ事前に伝えずに、ね」
二人とも、一瞬何の話か分からないような顔をした。だけどそれは一瞬で、みるみるうちに何故そんな事をしようとするのか理解できない、といった表情に変わった。
良いじゃない。これは、私の些細な挑戦なんだから。
*****
何事もなく、数日が過ぎていき、とうとう実習のある日がやってきた。ひぃなは相変わらず、私や
棕櫚(に詳しい事を話してくれない。それでも、笑顔を見せてくれていたからあまり心配はしていなかった。
先生の声が教室に響き渡る。ここは一番広い実習室だ。普通の教室では、神祇が召喚されて人口密度が上がると全員を収容しきれない。この教室は一番上の階に作られていて、ここからの景色は綺麗な事で有名だ。
空も近くに見える。天気が良くて、何でもやれば成功してしまいそうだと気分まで明るくなるほどだ。
まだ冬は終わっておらず、あと数週間は寒さが厳しいだろうと思われる時期だ。しかし雲一つ無く、暖かな日差しが注がれているせいか、そんな気分になるのだった。
「きちんと、今日召喚する予定の神祇と約束はしておきました?」
私と棕櫚は大丈夫だ。手の込んだ仕事は控えてもらうようにお願いしてある。ひぃなに関しては、何も言ってこない事を考えると、まだ
誘祇(に何も言っていないようだ。
ひぃなは大丈夫なのだろうか。神祇の強制召喚は簡単な事ではない。しかも、強制と名はついているものの、本気で神に拒否された場合は召喚は実現されない。召喚の失敗だけで終わればいいが、呪詛返し同様に術者に使った分だけの力がそのまま返ってくる。呪詛返しほどではないにしろ、術者に負担がかかる事になる。
できれば、やらない方が良い術だった。
誘祇の事だから、忙しくても拒絶はしないと思うけれど。だからといって、誰だか判らない喚びかけに応じるかは不明だ。無条件で応じるほど危機感のない神ではない。今回の事は賭けのようなものだ。
「やり方は覚えていますか?
念の為に、今から手本を見せます」
しっかりと見ておくよう、先生は釘を刺しながら行動を開始した。
先生の手本は平凡だった。何か失敗をするでもなく、特筆すべき点があるわけでもなかった。そんな事言ったら失礼かもしれないけれど、事実だ。手本という意味では、これ以上ない程完璧な手本だ。
術式の書いてある符をかざし、言葉を添える。符が光り出した所で、先生によって神の名と呼び出す為の言葉がそれに刻まれた。
さらさらと、先生の付近に小さな歪みができる。その歪みは不快なものではなく、どちらかと言えば心地よいものだった。
人のような輪郭が現れ、完全に顕現すると歪みは消え去った。
「こんにちは、みなさん」
にこやかに挨拶する
そ(れ(、は明らかに地祇だった。
「彼は今回この授業を手助けしてくださる神です。
どうしてもうまくいかない時は、彼にも頼ってみてくださいね」
先生に対する態度や見かけは普段の地祇とは異なっていたが、神の纏う気は地祇のそれだった。
「何であいつが……」
いつの間にか近くまで来ていたらしい、ひぃなの呟きが聞こえてきた。ひぃなも私と同じ様に考えていたようだ。
「毎回姿を変えて手伝っているのかもしれないね」
「それは構わないけど、
崩祇(の面倒はどうなってるのよ」
ひそひそと話をしている私たちに向けて、軽く視線を向けて片眼を瞑る。いたずらにそんな事をしてくる神祇は地祇しか知らない。
しかしひぃなの言う事は尤もだった。崩祇の面倒を見る事が本来の役割であるならば、授業の手伝いをしているのは不自然だ。また、今までの実習で地祇が手伝いとして現れたのはこれが初めてである気がする。そもそも、神祇が授業に現れる実習なんて今までなかったけれど。
「心配性で過保護な神様の差し金じゃねえか?」
どの辺りから聞いていたのか、棕櫚が話に加わってきた。
「……かもね」
軽い溜め息を吐きながらひぃなが返事をする。彼女は暫く地祇を見つめていたが、何か思う所があるのか棕櫚の方に向き直した。
「ところで棕櫚」
「ん?」
「崩祇の箱庭、誰かいそう?」
ひぃなの言葉に棕櫚は目を閉じた。漆黒の瞳が隠れる。棕櫚の周りに小さな旋風が巻き起こった。あまりに小さい為、他の生徒には気付かれなかった。
「んー……
地祇っぽいのが一つ視えるな」
棕櫚がそう言うと、目を開いた。小さな旋風も収まっている。彼は、遠くの物などを見る能力を持っている。所謂千里眼というやつだ。見るとは言っても、感じるに近い感覚であるらしい。映像として見えるわけではないようだ。
「だが、あれは導祇か?
導祇の奴、地祇のふりして崩祇の面倒見てやがる」
彼はもう一度目を瞑り、ぶつぶつと呟いている。ひぃながそれを聞いて札を出した。
「気になるから走査してみる」
左手で札を持ち、腕を前へ伸ばす。右手を額へ持って行き印を作った。
「我が力よ、拡がりて我に告げよ」
「あ、ひぃなまで」
今は授業中なのに、好奇心が勝っているのか普段は真面目な方であるひぃなまで動き始めた。ちらちらと先生たちの方を見るが、まだ誰も気が付いていないようだった。
ひぃなの髪が不自然になびくと、すぐに彼女は戻ってきた。心なしか緊張しているようだった。
「走査、普通は見えないはずなのに……目が合っちゃった」
走査とは自分の力を周囲に走らせる事によって周りの状況などをしる術である。彼女の様に自分の力が常に発散状態になっている人は走査を行うのが上手になりやすいと言われている。上達するほど走査に使う力が他人に気が付かれなくなる。他人に気取られない程度の力を上手に走らせる事ができるようになるのだ。
「あれは導祇だった。でも、あんなに勘が鋭い神だったの??」
「
路(に気が付いただけだと思うけど……」
こころなしか焦っている彼女に、私は冷静に答えてあげる。ひぃなの事だ、恐らく円形に拡げるのではなく、一直線に拡げたのだろう。微量ながら力の濃淡ができ、それをあの神は見分けたのではないだろうか。
「ひぃなが何も言わなければ向こうだって何も言わないと思うぞ」
「そう、かな」
それでもやはり不安そうな顔をしたままの彼女は、教室の方へ視線を戻して固まった。
「何なの……あれ」
ひぃなの視線の先には、なにやら召喚を失敗されてしまったらしい憐れな神祇の手首が転がっていた。溜め息を吐いてひぃなが召喚を失敗させた張本人の方へ歩いていく。彼女の名前は佐久。ちょっと集中力に欠ける子だ。符を見てみた所、丁寧に書かれており間違いはなかった。
「あの手首、名は何?」
「あ、ひぃな。えっと、彼は
綱祇(って言うの」
「そう、少しどいてね」
ひぃなは手首の持ち主の名前を聞き出すと、自分の符を取りだした。もちろん召喚用のものだ。
「我は喚ぶ、我を助けし者を。
我は頼む、憐れなる神祇に。
我が下に顕れよ、綱祇とやら」
うわぁ……術式はちゃんとしているのに、喚び文句の何と手抜きな事か。私と棕櫚は苦笑を隠せなかった。しかもあんなに酷い喚び文句なのに、召喚が成功しそうであった。
「っ……!
ひでぇ言葉だったな。
だが、ちゃんと喚んでくれて助かった。礼は言っておく」
手首の持ち主が現れた。可哀相な事にまだ手首は繋がっていない。手首を持ったままおろおろとしているからだ。早く渡してあげればいいのに。綱祇だって、別に力の具合を変えて手首を構成し直せば佐久がそんなに動揺する事はないのに。
「佐久ちゃん、今度やる時は集中してやってね。
術式は間違っていなかったみたいだから」
「あ……ありがとう、ひぃな!」
「佐久、お前なぁ……手首だけしか顕現してないっていうのに、なんつーことしやがるんだ!」
手首を付けるなり、綱祇は佐久に言葉を勢いよく浴びせかける。佐久は肩をびくりと跳ね上げ、ぎゅっと目を瞑った。ちょっと可哀相かなと思い、助け船を出してあげようとした。
「綱祇さ……――」
「手首分の力だけの顕現じゃ、いざという時にお前を守ってやれないだろう?」
「うん」
「ま、いざという時なんてのが来るときは……喚ばれなくてもすぐ来て助けてやっけどな」
先ほどまでごちゃごちゃと言っていた神が、今度は甘い言葉を囁いている。意味が分からない。
「……単に心配で、声を荒げただけかよ」
棕櫚が呆れたように声を漏らした。この二人は、もしかしなくても良い感じなのではないだろうか。すっかり棕櫚と私は二人に当てられてしまった。
ひぃなを見ると、少し羨ましそうな顔をしていた。きっと誘祇の事を考えているんだろう。一旦二人の会話に落ち着きが見えた所で、ひぃなが声をかけた。
「佐久、今からこの術の上級術をやるわ。
これくらい集中すれば……あなただって召喚くらいできるはず」
「え?」
ひぃながやる気を起こしたようだ。その前に、私たちが召喚しておかなきゃ。棕櫚と目配せすると、急ぎで呪を唱え始める。
「我が祈りを聞け。
略式召喚……!」
「我は求む、我が愛しき神よ!」
約束しておいたおかげか、すんなりと神祇が現れた。棕櫚の方も大丈夫だったようだ。
綾祇(が彼の隣に添っている。
「あぁ、略式だから変だと思ったら……ひぃな殿が強制を行使しようとしていたのですか」
「全く、あの娘は無茶をする……」
神が小さく息を吐いた。佐久は私と棕櫚の略式召喚に驚いている。しかしその驚きは序の口である事を知らない。
「佐久ちゃん、これからが本番だよ」
「え、
水鶏(ちゃん……?」
不思議そうにこちらを見る佐久に、ひぃなを見ているよう促した。ひぃなが符をかざしているのに気が付いた佐久の視線がそこで留まる。
「我が声を聞けよ。
我が祈りを聞けよ。
我が意に添りて顕れよ。
拒絶するは許さじ。
我が前に姿を現せ――
我が喚びし神祇はこの世そのもの。
誘祇よ、我が下へ来よ」
*****
ひぃなの言葉に呼応するように、符に光が纏い付く。大きな力が動き始めた事に気が付いた地祇がとうとうこちらへ近付いてきた。だが、地祇は手出しをするつもりはないらしい。
「……っ」
「あまり無茶はするなよ」
「判ってるわ……」
軽く声を掛けたきり、地祇は何事もなかったかのように
棕櫚(の隣へと立った。
綾祇(はそれを見遣ると、さり気なく彼に目配せした。綾祇の様子を見るに、やはり地祇は
誘祇(に頼まれてここにいるのだろう。
「誘祇よ、我を警戒するか……
我が力を忘れたとは言わせぬ。
我が力を喰らえ」
ひぃなの声に呼応するようにして、彼女の周りを力の流れが発生した。ひぃなの言葉そのままに力を喰らおうとしているのだ。
「そう……っ我が力、恋しかろう?
懐かしかろう?
さぁ、我が下へ来たれ。姫を持たぬ神よ!」
ひぃなは力を言霊に上乗せしている。無理しないって言ったのに。それとも、彼女の中では無理していない事になっているのだろうか。力の流れは一瞬吸い込まれるような動きをしたが、次の瞬間には霧散した。
ひぃなのものとは異なる力が彼女を包む。誘祇なのだろう。
「返すよ、さっきの力」
「いらないわ。
だだ漏れさせているくらい余分な力だから、あげる」
「……うん。分かった。ありがとう」
ひぃなと誘祇が小声で会話をする。誘祇の力の濃淡がはっきりとする。力の塊が少し彼女から離れると、そのまま力が集まり始めた。
「成長したね、ひぃな」
「……子供は日々成長するものよ」
誘祇が顕現しながらはっきりとした声で言う。ひぃなはその言葉が気にくわなかったようだ。確かに、誘祇らしくない発言であった。以前、偶に姿をこの組に現していただけあり、佐久はそれを覚えていた。
「…………」
口を開けたまま、ぽかんとしている。綱祇は居心地が悪そうにしゃがみ込んだ。彼は滅多に誘祇と接する機会がないのだろう。遙かに上位の神祇が顕れた時、下級の神祇は頭を垂れるという。それに近い状況がここに生まれているのだった。
「でも、言ってくれれば私だって意地悪せずに素直に出てきたのに」
「自分の力を試してみたかったの。
もう一つは、あなたの相棒に迷惑かけたくなかったから」
まるで保護者のような物腰の誘祇に違和感を覚えるが、彼らの会話を遮ってまで指摘する度胸はなかった。棕櫚は見守る事に決めたらしく、怪訝そうな顔つきで二人を見つめていた。
「強制召喚を試みたのは、ひぃなで二人目だよ」
「案外少ないのね」
「そりゃあ、私の事を呼び出そうとするほど力を持つ人間は少ないからね」
二人に近い神祇が誘祇に気が付いた。膝をついたり、頭を垂れ始めている。綾祇や私が召喚した
深祇(はそんな事していないけれど、どちらも静かに佇んでいた。
「なら、力ある人間として認めてくれる?」
「勿論だよ。
でも、ひぃなは面白い事言うね。
姫を持たぬ神、とは……」
くすくすと静かに笑う誘祇は、やはり別の神ではないかと思ってしまうほどだ。だが、ひぃなは誘祇だと確信している。そうでなければ、こんな相手を揺さぶろうとしないはずなのだ。
「その方が、喚ばれやすいでしょ?
そういう神でいたんだから」
「手厳しいね」
「そうかしら。私は、あなたが危うくならないようにと遠慮しているくらい優しいと思ってるんだけど」
そろそろ、辺りの神祇の様子が明らかにおかしいと気付き始めた生徒がいる。神祇を無事に召喚できた生徒がこちらに視線を送っていた。何故か先生は気が付いていないようだった。その近くに地祇がいる。もしかしたら先生に何かしたのかもしれない。
「ありがとう、いつも助かるよ」
「うん」
二人にしては珍しく、互いに触れようとしない。表にあまり出ないだけで、二人の間には大きな溝ができてしまっているかのようだった。
「誘祇、それよりも聞きたい事があったのよ」
周りがざわついているのにまだ気が付いていないひぃなが話題を変えようとした。誘祇は漸く気が付いたようだ。
「あー……うん、それは良いんだけれどね」
周りに視線を移す神に、ひぃながつられた。そして気まずそうな顔で、やっぱり後でにしようかな……と小さく呟いた。
結局、あの後先生が私たちの集団に気が付いてちょっとした混乱が起きた。召喚された神祇にも動揺が走っていたし、心配になったけれど自称誘祇の姫巫女である
御月(が現れて沈静した。そうこうしている内に授業は終わり、帰宅の時間になった。
「誘祇、やっぱり変わっちまったと思うんだが」
「そうかな?
私は前からああいう神だと思っていたけど」
棕櫚の声にひぃなは平然と返す。前と変わらない、そう言う彼女だが本当にそうなのだろうか。
私は、変わってしまったように見える。でも変わってしまったのは誘祇だけではなく、ひぃなもだ。互いが、互いを避けようとしているように見える。いつもの彼ならば、会った早々にひぃなを抱きしめる。今回はそれすらなかった。いつものひぃなならば、あんなに挑戦的な態度をとることもなかった。
「誘祇も、私も、自分の立場を守らないといけない時期になった。
ただ、それだけなんだと思う」
「ひぃな……」
「でも、外の目がないときは普通に話しようとは思うけどね。
聞きたい事があったのに聞けずにさようならしちゃったし」
ひぃなはそれ以上、話す気がないようだ。最近はそういう事が多い。
「ひぃな、話の続きを聞かせてくれるかな」
私達、三人の目前に誘祇が顕現した。顕れた神は照れくさそうに笑う。
「私のせいで、話ができるような状況ではなくなってしまった」
そう言うなり、誘祇はひぃなを招き、自らの左腕に乗せてしまう。私がこの光景を見るのは初めてではなかった。ひぃなは昔から、このように抱き上げられるのが好きだった。
今回もやはり、嬉しそうだ。目尻が下がっている。
「私と誘祇が出会った時の事なの」
「出会った時……」
誘祇の声色が心なしか堅くなる。あまり話題にしたくない事柄なのだろう。ひぃなは気にせず話を続ける。
「私とあなたが出会ったのは、お祖母さまの御霊返しの時よね?
……なのに、お母さんってば、私があなたを連れてきた様な言い方をするの。
私にはそんな記憶なんかなくて……でも、疲れ切って眠った私を……」
話をしていく内に、だんだんとまとまりのない独白になっていく。
「ひぃな」
そんなひぃなの話を誘祇は遮った。
「大丈夫、ひぃなの記憶は間違っていないよ」
「……うん」
誘祇の口調が、どんどん小さな子供をあやすように変わってゆく。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「かみさま、わたし……ほんとうに、いっしょにいられる?」
「ひぃな――」
まるで幼い子供のように、たどたどしく話し出したひぃなに、私と棕櫚は顔を見合わせた。棕櫚が「分からない」と首を横に振ると思ったが、彼は眉を潜めて不機嫌そうに視線を逸らした。ひぃなのこの状態について、何か知っているのかもしれない。
「やくそく、まもってくれる?」
「勿論。私は、ひぃなを愛しているからね」
普段なら、誘祇はひぃなに対して「愛している」とは言わない。一体これはどういう事なのだろうか。
「よかったぁ……」
「さぁ、納得できたのなら、もう目を閉じる時間だよ」
「うん」
優しく呟く誘祇の言うとおりに彼女が目を閉じると、その額に神が口付けを落とした。次に目を開けたときには、いつものひぃなに戻っていた。今のは一体……――
「誘祇?」
「どうしたんだい?ひぃな」
「御月が良ければ……また、送り迎え……頼んでも良いかな」
「…………」
ひぃなの言葉に誘祇は言葉を失ったようだ。棕櫚が小さく「あいつ……感激してるんだ。自分から少しずつ離れていこうとしてるのに、何て了見だ」と呟いている。
「あ、誘祇の考えに支障が出るなら――」
「いや、送り迎えする。前みたいにね。
私は、自分を含めた全てを騙し続けると決めたんだ。
それ暗いの褒美はあったって、構わないと思わないかい?」
「……?うん。そうだね」
ひぃなはどこか、腑に落ちないようだったが、彼に合わせて相槌を打った。
「明日からで良いかな?
今日は仕事を抜けてきたから、そろそろ戻らないと姉上に叱られてしまう」
「うん。今日はありがとう
明日から、またよろしくね」
「それでは――また明日」
翌朝、誘祇は何もなかったかのように、ひぃなの送迎をした。棕櫚は少し不満そうな顔をしていたけれど、何も話してくれなかった。次第に二人の様子も棕櫚の様子も以前と同じようになり、全てとは言わなくてもおおよそ、その関係が元に戻ったように見えた。
その内、そろそろ冬が終わろうという頃になり、春休みに入ったのだった。
第四話:神祇召喚実験 了
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