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 誘祇の自室に入る影があった。
 「嘘祇(こぎ)、参りました」
 黄金色の髪をまとめずにそのまま下ろした姿で現われた嘘祇は、中性的な美しさを持っていた。誘祇の返事を待たずに襖を閉め、彼の下へと歩き出す。
 「本当に、宜しいのですか?」
 控え目に確認する嘘祇へ、誘祇は振り向いた。そして彼を自分の直ぐ側へ導いて座らせた。
 「この者の身代わりになって欲しい。
  出来るか?」
 そう聞く誘祇の手には、一つの変った形をした(かんざし)が握られていた。



 「余の名は――麗祇」
 彼は水鶏(くいな)と目を合わせ、お互いの鼻があと少しで付いてしまうのではないかという程に顔が近い。
 「あ……」
 彼の名が水鶏の心に刻まれたようだ。水鶏の瞳が虚ろになった。彼女の瞳に麗祇の瞳が映し出されている。ふと、麗祇が微笑んだ。麗祇の微笑みを見た水鶏はそのまま静かに目を閉じた。彼女が目を閉じると、一粒の雫が零れて頬を伝う。その雫を麗祇が唇で拭った。
 「どうせ、あなたの一族の中ではあの神祇の姫巫女がまだ健在なのでしょう?
  要するにあなたは一族に仕えているあの神祇の姫巫女になることは出来ない」
 水鶏のまぶたが震える。その反応に麗祇はほくそ笑む。麗祇は優しく彼女の頬を撫で、いとおしそうに見つめた。
 「あなたは余の姫巫女となった方が、寂しくはないであろう。
  力があり、それを制御することが出来る実力を持っていながら、一族の為に姫巫女となれないのだから。
  大きな力を持ち、自由自在に操れる者は姫巫女にならぬ限り心の安寧は得られない。
  それも――分かってはいるのだろう?」
 姫巫女や神凪という地位は、安全であるという証のようなものである。力を持たないただの人間にとってみれば、力を持つ人間は十分脅威になる。しかし神祇と契約をしていることにより、力を持たない人間へ対して危害を加える事は特別な理由がない限り出来なくなる。逆を言えば、姫巫女や神凪でないということは、特別な理由がなくとも危害を加えることが出来るということだ。
 「ねぇ、水鶏。
  あなたは肉体的に傷つくことよりも、精神的に傷つくことが厭なんでしょう?
  余は……そこから解放してやれる」
 「でも、そうしたら私は友人や他の神祇を裏切ることになるでしょう……」
 力無く呟いた水鶏を見て、麗祇はおや?と右眉を上げた。暗示はしっかりとかかったはずだ。何か彼女の中には強烈に想うべきものがあるのだろうか。
 「そんな下らないこと、考えなくて良い。
  余の言うことをただ頷いていれば良いのだ」
 麗祇はぶっきらぼうに言うと、先ほどから水鶏の胸元に置いていた左手で彼女の右胸を軽く掴んだ。
 「……っ」
 突然のことに水鶏は小さく息を吸った。彼はそれほど力を加えずに掴んだだけだが、水鶏にとってみれば驚くべき行為であった。暗示はもう既にあってないような状態のようで、水鶏は閉じていた目を開いた。彼女の瞳が麗祇を映し出す。
 「折角、あなたが怖がらないように暗示を掛けてあげたのに」
 麗祇の声色が冷たくなってきた。彼の瞳も心なしか冷たい。水鶏はその様子を見やり、背筋を凍らせた。
 「大丈夫。安心して余に身を任せるが良い」
 麗祇が水鶏の耳元を唇で優しく撫でた。水鶏は再び目を閉じ、今は眠る愛しい友人の名を呟いた。
 「か…お……ぅ」
 水鶏の呟きに呼応するかのように、風が舞った。その風はこの時季には嗅ぐ事のできないはずである花の香りを運んできた。麗祇はその香りの源へと顔を向けると、花の香りを纏った風と光の渦が存在していた。水鶏は嗅ぎ慣れたその香りに気が付き振り向こうとするが、麗祇の結界に阻まれた。
 渦はゆっくりと水鶏と麗祇の方へ向かってきている。初めて麗祇が小さく悪態を吐いた。それが二人のもとへと辿り着くと、その隠れていた姿を現した。
 実体を取ることはなく、はっきりと輪郭が分かるわけでもない。しかし、突如として現われた姿に麗祇は驚きを隠しきれなかった。先程まで一切の進入をも許さぬ麗祇の結界がこの者に容易く破られたのだ。
 「我が姫を貶めようとするのはお主だな。
  我が今、眠りについていると油断したか」
 「いえ、そんな……滅相もない」
 凛とした、清涼な雰囲気を持つ声に麗祇は謙った。
 「しかし流石ですね。
  この時季に姿を現すことが出来るとは」
 麗祇はそう言うと水鶏から手を離すと同時に水鶏の背後にあった結界を解いた。倒れそうになる水鶏を麗祇の代わりに光が彼女を包み込み、風が彼女を支えた。この様子を面白くなさそうに見ていた麗祇は畏まった言葉遣いはそのままに、態度を変えた。
 「我が姫、と彼女をそう呼ぶのですか。
  あなたは精霊の類でしょう?
  私の見解が正しければ、あなたは彼女を我が姫と呼ぶ事の出来る存在ではないはずですが」
 嘲笑うかのように言う麗祇に対して、彼は冷静だった。
 「我はこの姫と心通わせることが出来ればそれだけで十分。
  この姫は、一族に代々属している神祇の姫巫女を継ぐ御方。
  現姫巫女殿も、この姫の期が熟すれば引退すると仰っている」
 少しずつではあるが、精霊の輪郭がはっきりとしてきた。辺りは、麗祇が自分たち周辺に張った結界とは別に、あらかじめ広範囲に巡らせて張っていた眠りの結界によって静まりかえっている。
 「そも、“我が姫”とはこの幼子の愛称であるぞ。
  少なくともこの周辺にいる我が同胞はそう呼んでいる」
 実体化とまではいかないが、ある程度はっきりと姿が見えるようになった。精霊の表情は麗祇への呆れを表している。麗祇の頬に一瞬朱が差した。その瞬間、陶器の割れる音が聞こえた。広範囲に巡らされていた結界も壊れたのだ。強制的に眠らされていた精霊達がぞくぞくと目を覚ましていく。
 「本当に流石です。直接自分には関係のない結界まで壊す余裕があるとは。
  私の結界は弱いものではなかったはずなのですがね。
  精霊のままでいるには惜しい。そうは思わないのですか?」
 自分の術がこうも簡単に破られたこと自体は気にしていない麗祇は、それを実行した精霊の力へ興味を向けた。
 「あなたはその気になれば、姫巫女を迎えることすら出来るようになれます。
 正当な手段でも、正当でない手段でもね」
 「…………」
 麗祇の言葉に精霊は答えない。
 「どうです、こちら側へ一歩踏み出しません?
  正当な手段を選んでいたら、時間がかかりすぎます。
  認められた頃には、彼女は他の神祇の姫巫女になっているか寿命で死しているだろうよ」



 誘祇は愛おしそうに簪を撫でた。自然と、嘘祇の視線も簪へと向かう。二人は向かい合わせに座っていた。周りには人の気配はない。聞こえるのは、もう季節はずれになり始めている虫の声だけであった。
 「これは、私が愛した最後の姫巫女の遺品(もの)なんだ」
 嘘祇は、誘祇に姫巫女をもう娶らないと決心させた原因であると言われている女性の所持品だと言われ、強い興味を示した。
 誘祇自身、身の回りにいる神祇以外にはもちろん、その身の回りの神祇にすらこういった話をしたことがない。彼の中で封じられていた話なのだ。彼女が死んだ事実は知っていてもどういった経緯で、何故死んだのか知る者は誘祇を除いては誰一人としていない。
 「恐らく彼女なら、こんな事をしようとしている私を許してくれる。
  というのも、嘘祇にはこの死せる彼女の身代わりとなってもらいたいのだ」
 「彼女を侮辱することになっても宜しいのですか?」
 誘祇自身とて、分かってはいるのだろう。既に死した人間の姿と記憶を甦らせるという事は、その死した人間を侮辱することに繋がるという事を。それでも、彼は実行したいのだ。ひぃなという少女を護り、この世界に暫しの安寧をもたらす為に。
 嘘祇は、彼の望みが何となく分かってはいたが確認したかった。その心に偽りが入っていない事を確かめたかったのだ。だから、何度でもそれで良いのかと聞いてしまう。
 「彼女どころか、ひぃなという少女をも裏切る行為かもしれませぬ」
 裏切るという単語に誘祇が小さく反応するが、静かに言い切った。
 「それでも、構わないよ。
  そうだ、出来れば私に敬語を使うのを止してはくれないか?」
 「分かった。では、私にその簪を貸してくれる?」
 簪を受け取りながら、嘘祇は思いを深く巡らせていた。この神は気が付いているのだろうか?ひぃなという少女が思っている幸福の形と、誘祇が思っている幸福の形に食い違いが生じていることを。恐らく気が付いてはいまい。だからこそ、このような思い切ったことが出来るのだ。
 この簪の主であった女も、自分が愛した神祇にこういった風に使われるとは思ってもいなかっただろう。こんな事になるならば、普通に死ねれば良かったと思うだろう。一説によると、誘祇が姫巫女を迎える度、何かしら彼を良く思っていない崩祇やそれに準ずる者によって、彼の姫巫女らは殺されたという。最後の姫巫女も、例に漏れず良い最期を迎えることは出来なかっようだ。その証拠が今の誘祇である。
 愛しい少女の未来には、自分が存在してはならないと思いこみ、あまつ彼女の身体は護れても心を護ることが出来ていない事に気付きもしない。いや、知ろうとしていないのだ。
 「……嘘祇?」
 そこまで考えて、現実へと引き戻された。
 「あぁ、すまない。
  しかし心配は要らないよ。簪には十分な記憶と思い出があるようだから」
 ひとまず誘祇を安心させると、今度は簪へと思考を向けた。この簪は、十分すぎるほど愛されて使われていたようだ。この持ち主であった少女の記憶まで混じっている。
 「簪を視て良いか?」
 「どうぞ。彼女の身代わりに必要なことが揃っていれば良いのだけど」
 誘祇の返答を聞くと、嘘祇は誘祇から少し離れて座り直した。嘘祇は簪に唇を添えて呪を唱え始めた。二人の間には緊張した雰囲気は流れておらず、寧ろ優しく柔らかい雰囲気が流れていた。少し時間が経つと、嘘祇の周りの空気が澱み始めた。それにつれて簪が輝いていく。嘘祇が目を閉じた。まだ呪を唱えている。
 澱んだ空気がある種の結界のようになった。誘祇はその様子をただじっとして静かに見ていた。
 誘祇はこの術を見るのは初めてだった。この後、一体どうなるのか誘祇には分からない。
 呪を唱えていた嘘祇の声が止んだ。呪を唱え終わったようだ。嘘祇が閉じていた目を開くと、誘祇はあっと小さく声を出した。
 「…………」
 嘘祇は声を発することもなく、誘祇を視界に入れることもなく、そのままの姿勢で意識を飛ばしているようであった。そこまでは何の問題もない。しかしその瞳の色や、髪の色に変化が生じ始めていたのだ。
 彼の瞳は琥珀色から漆黒へ、髪は黄金色から烏羽色へと変化した。誘祇にとってこの色は大層懐かしいものであった。愛しい最後の姫巫女と同じ髪色と瞳の色をした嘘祇は、その状態のまま暫く動くことはなかった。
 十分程が経過した。空気の澱みが消え始め結界が消失した。虚ろで何も映す事の無かった嘘祇の瞳に、誘祇の姿が映り込んだ。彼が数回瞬きをすれば瞳の色は元の琥珀色へと戻り、髪色も元の黄金色へと戻った。
 誘祇は嘘祇の色が元通りになるのを見やると、安心したような、しかし寂しいような気分になった。未だにあの姫巫女だった女を忘れる事はできない。最も、忘れようとも思わないし、忘れる事などできはしないのだが。
 簪の輝きが収まると、嘘祇が口を開いた。どうやら簪を視る術が終わったようだ。
 「誘祇、私は彼女とあなたの全てを視る事ができた訳ではない。
  やはり私の想像していた通り、哀しいものだった。
  だが――哀しいからこそ、美しい」
 誘祇は嘘祇の瞳が潤んでいるのに気が付いた。何を視たというのだろうか。気にはなっていても、誘祇はその事を口にしなかった。
 彼の瞳を潤すものは簪と彼女の記憶や想いの為か、はたまた蠱惑の為か。
 嘘祇は儚い笑みを浮かべて立ち上がり、一歩誘祇の方へと進んだ。それに対し誘祇は座ったまま動かない。また一歩、嘘祇が近付く。
 二人は互いの目があった瞬間に、もう引き返せそうにないのを感じ取った。心なしか、誘祇の表情が艶めいて見える。そう嘘祇が思ったのを感じ取った誘祇はゆっくりと俯いた。
 最後の一歩。目の前に立っている嘘祇は気が付かなかったが、誘祇はうっとりと目を閉じたのだった。



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