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 嘘祇(こぎ)がゆっくりと誘祇(いざなぎ)の前に膝を落とす。再びお互いを見つめ合う形となり、二人は微笑んだ。
 「あの姫巫女の姿をしようか?
  それとも、可愛らしい雛鳥の姿にでも……」
 「しなくて良い。そのままの姿で良いんだ」
 嘘祇の甘美な誘いには乗らず、左手を彼の頬へ伸ばす。伸ばされた左手を嘘祇は右手で絡め取った。
 「罪の意識で私を(いだ)くか」
 その言葉への返事の代わりに誘祇は軽い口付けを落とした。誘祇が顔を離そうとすると、嘘祇がそれを追って口付けを返す。互いの片手は絡み合ったまま空中を彷徨っている。軽く交わされていた口付けであったが、次第に深くなっていく。
 「あなたは混沌としているね。
  意思、望み、思惑、全てが異なる方向へと向かいたがっている」
 長い口付けの後、嘘祇が言った。誘祇は困ったように笑う。
 「一体あなたは何がしたいの?」
 「彼女の幸せの為に、自らを犠牲にしたい。のかな……」
 「それこそ矛盾した考えだ」
 嘘祇が誘祇の言葉を一言で笑い飛ばす。そして誘祇の首もとへと唇を這わせた。誘祇の、嘘祇と絡ませている手に力がこもる。
 「私の事は、関係ない……」
 二人の力関係が変わった。声を固くし目を細めたた誘祇に、嘘祇は一瞬にして押し倒された。嘘祇は少しの間驚いたようにぽかんとしていたが、直ぐに笑いへと変わる。
 「面白い人だ」
 塞がれていない右手で誘祇の髪を梳く。さらさらと透明感のある銀糸が流れる。
 「良いだろう。混沌としたあなたに抱かれるのも悪くない」
 嘘祇は右手で糸を一房掴み取って口付けを落とす。それを合図に誘祇は更なる混沌へと自ら誘われていった。



 「我を、甘く見るな」
 精霊の声に力が宿る。風が強く吹き荒れた。相変わらず精霊の姿ははっきりとはしていない。目を覚まし始めた他の精霊が、この静かな騒ぎにざわついている。
 「我は、花の精霊族が長である。
  上に立つ者としての誇りがある。それに――」
 見知った力に落ち着きを取り戻し始めた水鶏(くいな)をかき抱くように精霊は両腕で抱え込んだ。精霊の持つ力ではなく、精霊が直接触れる心地よい感覚に少女は切なそうに目を閉じた。
 「本当に、我はこの姫が幸せであってくれさえすれば良い。
  我自体がどうこうするという話とは次元を異にするのだよ」
 一瞬ではあったが、精霊の姿がはっきりとした。その姿を見た麗祇は不満げに呟いた。
 「成体の儀を行う前に力を見初められ、王となったのか」
 成体の儀とは、幼い精霊が大人として認められるようになる儀式のことである。この精霊はその儀式の前に、王と認められるほどの力を持っていたということだ。季節が季節なら、麗祇を簡単に追い払うのが可能だったろう。普通の神祇よりも神祇らしい精霊。下手をすれば麗祇よりも遙かな時を生きてきている。そんな精神的に研ぎ澄まされているこの存在に、麗祇の戯れ言が通じる訳がなかった。最初からつけ込む隙など、なかったのだ。
 「残念だが、我が姫から手を引いて頂こうか。」
 精霊の瞳には怒れる心を映していなかった。ただただ、この少女を心配する想いだけを映していた。少女は近くで聞こえる精霊の声に安心したのか、ゆったりと身を委ねている。
 「お引き取り願おう。麗祇殿」
 麗祇は綺麗な顔を歪ませた。何もかもが気にくわない。邪魔をしてきた精霊も、その精霊の力量を測りきれなかった自分自身も。自分は強く、そして美しいと今まで自負してきたし、周りもそういった反応だった。こんなに胸糞が悪い気持ちになるのはこの世界を統べる誘祇上(いざなぎのかみ)を初めて見た時以来だった。
 「言われなくとも、もうこの少女に構う意味はない」
 麗祇は自分の中に渦巻く負の感情を押さえつけ、冷たく微笑んだ。先程まで顔を歪ませていたのと同じ神だとは思えない変わりようである。
 「偽りの幸福の中で、生き続ければいい。
  邪魔をした。余は、これにて失礼させて頂く」
 微かな気配を残して、麗祇は去った。周りで騒いでいた精霊達がそれを感じ取って静かになる。暫く経ってから精霊は小さくため息を吐いた。
 「水鶏さん、大丈夫ですか……?」
 遠慮がちに聞く精霊は、先程とは打って変わり哀しそうだった。威厳のあった雰囲気もない。
 「あぁ、少し襟元が乱れてしまっていますね。
  直しますよ」
 水鶏の背後から抱きしめる形となっていた精霊は、その体勢のままに乱れを直す。手元だけしっかりと具現化しているようだ。水鶏は少し緊張しながらその様子を見ていた。直し終えると、精霊は労るように水鶏の頭をゆっくりと撫でた。懐かしい感触に水鶏は目を閉じる。
 「手遅れになる前に、助ける事ができて良かった」
 「ごめんなさい、無理をさせてしまって。
  こんな季節に具現化しようなんて、自殺行為なのに……」
 花や植物の精霊には時期というものがあった。樹木の類であれば、葉を付ける事すらできない時期は眠っていなければ力を保てない。精霊は神祇よりも不完全な存在であると言われている。神祇は精神体であるが、精霊は違う。器というものがあり、そこから独立して行動する事ができる。人間と神祇の丁度、中間のような存在であった。
 「そんな柔な存在ではありませんよ、僕は。普通の精霊より、強いんですから。
  それよりも、もう暗い。お屋敷まで送っていきます」
 精霊はそう言うなり少女を改めて抱きしめた。反射的に息を呑むと、空間が歪み始める。ほんの一瞬、ぐらりとしたかと思うと目の前には水鶏の屋敷があった。
 「歩けます?」
 「何とかね。ありがとう」
 心配そうな精霊に、礼を言うなり水鶏は屋敷へと入っていった。中からは少し遅かったわねという声と、水鶏のちょっと寄り道をしてきたの。という声が聞こえてきた。それを確認すると完全に具現化をやめた精霊がその場を去っていった。
 水鶏はその夜、夢の中で再び麗祇と何度も対峙する事になってしまい、心底少女を怯えさせた。無論、麗祇はそれを知らない。少女を助けた精霊も。



 「よ、ひぃな」
 「あれ?棕櫚(しゅろ)……」
 家の前に立っていた親友にひぃなは首をかしげた。棕櫚はそれに苦笑して答える。
 「誘祇の奴、仕事が立て込んでいるらしくて来れないんだと」
 「ふぅん」
 偽者の誘祇の件かしら…と二人で彼の仕事について考えながら二人はひぃなの家を出た。登校途中に珍しく水鶏を見つけた棕櫚は駆け寄った。
 「おい、水鶏。今日は珍しくまだ学校じゃなかったんだな」
 水鶏の肩を軽く押さえるように触れ、棕櫚は元気に言った。しかし、当人である水鶏の方はびくっと大げさに肩を震わせ声を荒げた。
 「……っや!」
 言うなり棕櫚の方へと身体ごと振り向く。棕櫚は驚いた様子で両掌を少女へ向けるようにして降服の姿勢を取った。
 「俺だ俺っ、棕櫚だよ水鶏」
 「どうしたの?水鶏」
 棕櫚の行動に一瞬出遅れたひぃなが追い着く。棕櫚もひぃなも水鶏の様子がいつもと違う事に気が付いていた。
 「あ……」
 水鶏が二人を交互に見やる。少女の瞳が微かに揺らめく。無意識に自分自身を抱きしめるように両腕を動かしていた。
 「二人とも、おはよう。ごめんね、ちょっと驚いちゃって」
 「ちょっと所じゃないわよ。
  かなり混乱してた。昨日、何かあったの?」
 ひぃなと棕櫚は心配そうに水鶏を見やる。少女は静かに首を振った。
 「後で話すね。今は早く教室に行かなきゃ……」
 水鶏の様子に、二人は顔を見合わせた。どちらも納得できないといった表情だった。しかしそんな二人を置いて水鶏は先に歩き始めてしまう。棕櫚は首を横に振ると水鶏の後をついて行った。
 「あ、待ってよ。もう」
 二人に置いて行かれそうになったひぃなはそう言って追いかけた。



 「で。教えてくれる?」
 三人が教室に着き、荷物をそれぞれの机へ置くと水鶏の席へ集まった。水鶏は大人しく、席に座っている。
 「誘祇の偽物にあったわ……」
 「なっ」
 彼女の言葉に棕櫚が声を出した。ひぃなは眉を寄せて目を閉じた。
 「だけど、精霊に助けてもらったの。
  私は大丈夫だった」
 水鶏はゆっくりと話してゆく。
 「彼の名は、麗祇。誘祇じゃなかった……
  自分が誘祇じゃないって気が付く姫巫女候補を探してもいるみたい。
  多分……その姫巫女候補を、襲ったらこんな事を止めるつもりよ」
 突然、当人となったひぃなは水鶏を見つめ直した。水鶏が襲われて気が付いた事は当たっている。その通りだとひぃなの直感は呟いている。
 「でも、許せないわね。
  親友を襲うなんて。棕櫚、手伝って欲しいことがあるんだけど良い?」
 水鶏は不思議そうにひぃなを見上げる。棕櫚は何となく厭な予感がして、拒絶の言葉を発しようとした。
 「棕櫚がやってくれないと、私自らがおとりをしなきゃいけなくなるんだけど……
  本当に襲われたとき、責任持ってくれる?」
 拒絶の言葉の前に、ひぃながあなたに拒否権はないのよ。と暗に言っている。棕櫚はがくりと肩を落とした。
 「じゃあ、放課後に急いで制服を交換しましょね。
  髪型は昼休みに私が結うから」
 水鶏はくすくすと笑っていた。その様子に気が付いたひぃなは嬉しそうに微笑んだ。水鶏が笑うのを今日初めて見たのだった。
 「俺の矜持が奪われていく……」
 「良いじゃない、女装くらい。水鶏のためだと思って頑張るのよ」
 ひぃなは至って真面目だった。真面目だからこそ、棕櫚は参ったなと思う。親友を取るか、自分の感情を取るか。そう考えてしまえば、それこそ棕櫚に選択する余地はない。
 「分かったよ。立派に姫巫女候補生の振りしてやるから。
  お前こそ麗祇とやらに気が付かれないようについてくるんだぞ」
 棕櫚の言葉にひぃなの目尻が緩む。担任が教室へ入ってきた。ひぃなと棕櫚は水鶏の席から離れようとする。その瞬間ひぃなが棕櫚へとすれ違いざまに呟いて行った。
 「良い作戦があるの。後で説明するね」



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