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「お疲れでしょう……
それに、もうこんな時間だ」
そう言って精霊王はひぃなと手を繋いでいない方の手を口元に寄せ、一息吹いた。その息吹はさらさらと桜の花びらとなり、それが散るが如く、空へと舞い上がる。舞い上がった花びらは発光し、辺りを照らした。柔らかな、薄桃色の光に照らされ、全てが華やいで見える。
「あなたが、精霊王……」
「そう。僕が花桜」
穏やかに、はっきりと彼が告げるとひぃなは微笑んだ。そしてゆっくりと瞬きをする。
「ひぃな殿、先ほどから手が冷え切っ……あ」
彼女の様子を訝しむ花桜に向けて、倒れかかってきた。花桜はその勢いを殺せずに自分の木に背中を打ち付ける。辛うじてひぃなの頭が木へとぶつかることを阻止した少年は、彼女の様子を確認する。
「やはり、人間には大変な事だったんだね。ありがとう」
ひぃなに対し、そう呟いた後に自らを助けてくれた残りの二人を見る。水鶏(はやはり疲れを隠しきれないようだった。棕櫚(の方は、立っているのがやっと、といった様子だ。
「二人とも、腰を掛けて。
そんな状態じゃ、貴方たちも家に帰れないでしょ」
気を失っているひぃなを抱え直し、彼女を楽な体勢にする。姿は小さいが、数千という時を生きてきた精霊だ。それくらい何ということもない。棕櫚や水鶏も腰を地に落ち着けた。やはり二人とも限界が近かったのだろう。座っている様子にもあまり力がなかった。
精霊王は少女の額へ手を当てる。この娘は何かが変だ。そう違和感を感じたのと、単に彼女の状態が心配なのとで半々だった。直接肌に触れると、力の強さがよく分かった。そして、同時に驚いた。こんな事が実際にあるなんて。
これが、事実なら……彼女には選択権がある。だが前例は知っている限り、ない。精霊王はもう一つ気が付いた。彼女には、彼女の力だけではなく、他の力が付加されている。水鶏がよくひぃなの話をする。その時に、確か……聞かなかっただろうか。
「……彼の神か」
最高神の加護を得ていると言っていた。最高神らしき者の陰が、彼女に触れたときに見えなかっただろうか。
「棕櫚殿」
「……ん?」
「ひぃな殿は、ここ最近に誘祇(殿に力を喰われた事がある?」
棕櫚には心当たりがあった。召喚の授業の時だ。彼は素直に頷いてみせると、花桜はただ、そうかと呟いた。
「神祇が最高の位を持ちし者よ。
我はそなたが姫の助けを求めん者なり。
我が名は花桜、桜が精霊――春を謳いし者、精霊王なり。
そなたが同胞である我が求めに応じ、今ここに姿を顕し給え」
前触れもなく、花桜が声高々に唱えた。言葉に力の入った言霊ではない。ただの、呼びかけだった。
数秒、経っただろうか。何も起こらないではないか、と棕櫚が言葉を発しようとした時、神は顕れた。
「目覚めたんだね、精霊王」
「誘祇殿、数百年ぶりですね。
今年はご迷惑をおかけ致しました」
そう、二人が挨拶を交わす。堅苦しい空気が二人を包んだ。が、次の瞬間にはそれも崩れ去った。
「で、花桜。これはどういうことかい?」
「誘祇殿、ひぃな殿は僕に力を分けてくれたんだ。
水鶏が媒体になって。棕櫚殿は辺りの精霊の力を返還してくれたんだ」
誘祇の態度の豹変に、花桜は合わせた。どうやら二人は旧知の仲らしい。誘祇は顔を歪ませた。それはただの焼き餅から来るものだった。
「あぁ、そんな顔をしないで。
僕は……彼女から力を貰った。そしたら彼女が倒れた。
彼女を元に戻すくらい、訳はないよ?
でもね、彼女の力で戻すことになるんだ。これは彼女のしてくれたことを無駄にすることだ」
「そうだね」
「そこで、誘祇殿にお願いしたい。
彼女に先日頂いた力を彼女に返して頂けないだろうか?
その力で治癒を行えば、安定も早いはずだよ。
それに、悪い話ではないと思う。
その状態じゃ、あなた……ひぃなを食べちゃいたいんじゃない?
僕には、そういうの……子供だから分からないけれど。それって結構辛いことなんでしょう?」
優位に立つ者の笑みを浮かべてさらりと誘祇の痛い所を突いてくるのは、いつもの精霊がする事ではなかった。誘祇は冷静さを欠きそうになったが、その理由に思い当たり、その欲求を抑え込んだ。花桜は焦っていたのだ。自分の為に誰かが犠牲になるという事を初めて目の当たりにしたからだ。
「うん。
直ぐに返すよ」
誘祇は花桜にゆるい笑顔を向ける。今までに見た事のないやりとりに水鶏はきょとんとしている。水鶏は花桜が堂々としている姿を見た事がない。いつも低姿勢で、笑顔か困ったような微笑みをしていた。自分が優位である事を誇示するような態度は、しなかった。いや、しようとはしなかった。
「……良かった」
そう、彼が一言呟く様子に水鶏はほっとする。それと同時に、精霊王としての力を示さざろえない時には、ああして無理をするのだと理解した。
誘祇がここへ現れてから、辺りの明るさが増した。薄桃色の光の代わりに、自然な明るさが支配している。その明かりに照らされたひぃなの顔色は、あまり悪くなかった。どちらかと言えば血色が良い方だ。
今まで同様誘祇は左手をひぃなの額に乗せた。そして右手で彼女の身体の上を移動させる。その少しばかり発光している右手がひぃなの胸元で止まると、両手を離した。
「花桜、目の遣り所を変えた方がいいぞ」
「え?」
花桜が疑問の声を上げた時、誘祇はひぃなの衿を寛げた所だった。突然の展開に花桜はついて行けない。寧ろ、その状態のまま固まってしまった。
そんな事には頓着せず、誘祇は胸元すれすれまで着物を崩してしまう。更にその着崩れて肌の見えている所へ手を伸ばした。
「……ぇっ!?」
小さく花桜が息を呑む音がした。棕櫚は、そんなうぶな反応を示す彼に同情したくなった。誘祇の伸ばされた手は、少しだけ彷徨い、離れていった。その代わり近付いてきたのは、唇であった。唇は、迷うことなく真っ直ぐに鎖骨のやや右下の部分に触れた。そのままの体勢で呪を唱える。小声で唱える、その低くて心地よい声は、何を言っているのか全く聞こえない。ただその声が音として届くのみだった。だが、強すぎる刺激の中でも彼の神が何をしようとしているのかは分かった。
彼は、彼女の失われた力をただ帰すのではなく、彼女が力を出す際に人間の身体が耐えきれず壊れてしまった部分を戻す為に使おうとしているのだ。より彼女に合わせられた力を生み出す事ができなければ、戻せない。ある程度実力のある人間ができる、そんなただの治癒の術ではない。どちらかと言えばある種、黄泉がえりや反魂といった死者甦生術に似た属性を持つものである。誘祇は自らの属性を活かして彼女の肉体の一部を復活させようとしていたのである。
誘祇が呪を唱えている間、ずっとほのかに彼自身は光っていた。今までに数回見た事のある棕櫚にとっては珍しい状況ではなかったが、初めて見る花桜はそれを複雑そうな表情で見守っていた。
呪を唱える音が止んだ。彼は何もなかったかのように、ひぃなの着物を戻していく。最初の頃は惚けていた花桜も、今では普通に座っていた。
「……これで、終わり。
満足かな? 花桜」
「うん。ありがとう」
短いやりとりがあった後、誘祇はすくっと立ち上がった。
「私はもう行かないと」
「また抜け出してきたの?」
「うん。だから」
「そう。じゃあ、また」
ひらひらと手を振る最高神に、優しい笑顔で見送る精霊王。穏やかなその挨拶はまるで兄弟か親友のようであった。
誘祇が去ってから辺りがまた少し暗くなる。再び花桜の力による薄桃色の光が支配した。
「あいつ、俺と水鶏の事忘れたかのような反応しやがった」
「うん……まだちょっと、様子がおかしいね」
悪態を吐きそうな勢いの棕櫚だったが、自分達を空気のように扱ったのが不満だったわけではない。ただ、いつもならきちんと対応してくれるのに、しなかったから心配になっただけである。水鶏もまた、棕櫚や誘祇の事をよく知っている為、それを理解していた。
「誘祇、悩んでいるみたいだ。
と言うよりも、迷っているのかな」
「え?」
首を傾げながら、花桜が呟いた。
「自分が、決めた事を……後悔したくない。
だけど進む道が本当にこれで良いのか、不安みたい。
僕は僕で、自分の事で手一杯だから。感じ取れるのはここまでだけどね」
そう言って苦笑する姿は、ただの子供ではなかった。水鶏は何を悩んでいるのだろうか、と考え込む。今の花桜が悩む事など、何なのだろうか。逆に棕櫚はその言葉を聞いて自分の考えがやはり間違っていない事を思い知る。誘祇には、やはりひぃながいないと駄目なのだ。そう、この目の前で自分を見つめる――ん、見つめる?
「棕櫚?」
「うおぉあ!?」
ひぃなは目覚めていた。意識もはっきりしている。いつの間に目覚めたのだろうか。驚く棕櫚とは逆に花桜が穏やかに話しかける。
「ひぃな殿、目を覚ましたんだね」
「うん」
彼女はすっかり元通りになったようだ。花桜はほっとする間もなく、ひぃなに質問された。
「あなた、何故成体の儀をしないの?
できない? それともしたくない?」
精霊王の身体が強張った。話が読めない棕櫚と水鶏は話を聞く側でいる事に決めたようだ。ひぃなは続ける。
「少しだけ、調べたの。
精霊王になってからでも、できない訳じゃないんでしょ?」
「それは……」
彼女は、暗に早く成体になれと言っているのだろう。だが、精霊王は迷っていた。これまでになりたいと思わなかった事はないと言えば嘘になる。でも今は暫くなりたくない。まだ、子供でいたい。そうすれば許されるから。
「あなた、成体の儀をしてから精霊やめて神祇になれば良いじゃない。
全て丸く収まる。花桜、あなたが望むなら……手伝うわ。
私はいつも親友の味方なの」
「そんな事をしたって、僕はただの邪魔者でしかない」
だから、そんな事言わないで。そう、精霊王は寂しそうに笑った。
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